今夜だけでも有頂天に

ハイスペ女子と恋愛したいアラサー零細自営業者の活動記録です。

青春の記憶 ~ハロヲタだった時代~

bukuro青年、二十歳の頃の話である。 

これまで何度か述べてきたように、とある事情により高校と大学をそれぞれ中退し、齢二十歳にして最終学歴中卒という、人生の敗北が確定的になったbukuro青年であるが、底辺を這うような生活をしていた彼の、数少ない楽しみの一つがハロー!プロジェクトのコンサートであった。特にモーニング娘。を追いかけていた。死ぬほど憧れていたキャンパスライフが砂上の楼閣となったことで、行き場のなくなった情熱はアイドルに向けられていたのである。 

当時はまだAKB48がデビューする前後であり、アイドルといえばハロプロ勢の天下であり、モー娘も全盛期の勢いは後退していたとはいえまだまだ人気があった。 

アイドルの応援スタイルを現場系と在宅系に分けるとすると、bukuro青年は完全に現場系の人間であった。コンサートやイベントに行ってはメンバーを直に見て楽しむことを主としていた。

かつてのハロプロのコンサートには自由があった。糞席でヲタ芸するもの、振りコピに興じているもの、地蔵するもの、良席で推しジャンするもの、最前列でボードを使うもの。最近のアイドルのコンサートのように全員が同じペンライトを持ち、手を上下させるだけのマスゲームじみたものとは一線を画していた (いまのハロプロ事情は知らないが) 。

bukuro青年は良席でコンサートを見ることを喜びにしていた。良席とは具体的な定義がある訳ではないが、概ねホールコンサートでは5列目以内であり、なおかつMCでメンバーが横一列に並ぶ際に推しメンの正面0ズレの位置を確保することが重要であった。以前たまたまファンクラブチケで2列目が手に入り、推しメンのカラーTシャツを着ていたらレスをもらったことがきっかけとなり、その後メンバーに認識してもらいコンサート中にレスをもらうという行為にすっかりハマってしまったのだ。

AKB48が登場する前のアイドル現場では握手会のようなメンバーと触れ合える機会はほぼ皆無であり、彼女たちに顔を覚えてもらうにはコンサートに、それも良席に足繁く通うほかになかった。モー娘でも年に一回ハワイツアーというメンバー全員と握手でき写真も撮れるというイベントがあったが、その折は参加費 (たしか十数万) を用立てすることができなくて毎回参加を断念していた。これは当時ハロプロの頂点に君臨していたイベントであり雑誌ブブカなどでも特集されていた。

モー娘のコンサートツアーは春と秋に行われるのが常であり、その公演数は多く、10都市20~30公演ほど行われていた。bukuro青年は新幹線で行ける仙台、新潟、名古屋あたりまでは遠征もしており、ひとつのツアーで10~12公演ほどは5列目以内の良席で入っていた。 

チケットは毎回ヤフオクで購入していた。ここ数年で電子チケットが一気に普及したが、かつてはコンサートの1、2週間前にチケットが発送されると、その後一定量ヤフオクに出品されることになっていた。そのため良席であれ糞席であれ金さえあれば入手することができた。当然転売屋が利するシステムだが、金があるものが良い席を手に入れられる、これはこれで理にかなったものだった。

もっともフリーターとして生活に困窮していたことが想像に難くないbukuro青年が、なぜに毎回3~5万のチケットを落札でき、遠征費まで工面できていたかというと、彼自身も転売で稼いでいたのだ。少なくともヲタ活動に関しては完全に自給自足していた。
ファンクラブ枠を12枠ほど所有しており、チケットが手に入るとたとえいい席であっても自分で入ることはなく、一旦すべて売りに出して、時間が有り余っていたことをいいことに複数アカウントで自作自演で値段を釣り上げてはシコシコと小銭稼ぎに勤しんでいた。そして同時に自分の納得いく席を落札するのであった。 

おかげで推しメンにも認識された。曲中に指差ししてもらうことが至福の瞬間だった。現実世界では奈落の底に足を引っかけていた彼も、この時は彼なりにも充実した時間を過ごしていたのだ。

しかし、その至福の時間も最後は身から出た錆により終止符を打つこととなったのである。ヲタ活末期時はコンサートよりも移動の入り待ちや出待ちにウエイトを置くようになっていたのだが、そこでメンバーに対しある破廉恥な行為をしてしまったのだ。そしてその日は名古屋に遠征していたが、コンサート中に、モー娘の現場警備責任者であった、通称いっこく (なぜいっこくと呼ばれていたのか忘れてしまったが、いっこく堂に似ていたからだろうか) に「荷物まとめてこっちこい!」と威圧的な口調でいわれると、人気のない階段の踊り場のようなところに連れ出されて、そのいっこくとよく分からないお偉いさん2人に自らの行為について糾弾されたのだった。半泣きの状態で最後は土下座し許しを請うも、許されることはなく名古屋まで遠征したにもかかわらず夜講演のチケットを没収され(名目上は転売で購入した他人名義のチケットを所有していたため)会場から追い出されてしまった。 

どこまでも自業自得のなせる業ではある。普段はロンリーウルフを気取り、自分には失うものがないとばかりにクレームはもちろんのこと、街中で肩がぶつかったどうかで言い争いになることも厭わない気性のbukuro青年であったが、大のおとな3人に凄まれ、大好きだったハロプロのコンサートもこれまでのように楽しめないのかと思うと、さすがにしょんぼりしてしまい、以降は現場から足が遠のいてしまったのである。

あれから10年。今でも当時を懐かしむようにハロプロの楽曲をよく聴いては、感傷に浸っているが、そこでふと思うのだ。自分にとってのこの10年とはまるで空虚であったと。こうして振り返られる思い出すらないのである。無為に過ごした歳月。あの頃の熱狂が懐かしい。神田川ではないが、何もこわくなかったあの頃。失った時間はもどってこない。空白の10年。虚しさを抱えた日々だけが続いていく…。