今夜だけでも有頂天に

ハイスペ女子と恋愛したいアラサー零細自営業者の活動記録です。

青春の記憶 ~ある個人的なナンパ史~

bukuro青年、二十二歳の頃の話である。

大学中退後、フリーター生活を続けていた青年であったが、いくら人生のレールから完全に脱線したとはいえ、このまま最終学歴中卒として生きていくほどの度胸は持ち合わせておらず、通信制大学に入り直し、幾分かの人生の立て直しを図っていた時期である。

 

青年は、東京の深夜の街を、自転車で疾走していた。目指す先はマクドナルド、通称マックである。そこで、朝まで時間を潰そうとする女性に声をかけるのである。ナンパしようというのだ。

青年は、長きにわたりひどく孤独だった。彼はこの時分、ハロヲタ活動、バイト、通信制大学、この三つを生活の中心としていた。

唯一の趣味といえるヲタ活動では、現場での知り合いはだいぶ増えて、コンサート終了後にそのまま居酒屋で打ち上げ的なことも慣行していたが、人間関係は当然の如く希薄なものであった。バイト先では、何分これは短期のうちにいくつものバイトを転々とするものだから、人間関係の構築など望むべくもなかった。通信制大学でもこれまた、スクーリングはせいぜい月に一度か二度しかないため、知り合いと呼べるような人すらできなかった。余談であるが、通信制大学には文字通り多種多様な年齢層、職種の方が通っており、勉学意欲に溢れた社会人とテーブルを囲んで授業を受けるのは、それなりに楽しかった。スクーリングは土日の二日間にわたって行われ、班を作り、グループワーク的なことをし、日曜の最後に班で発表するという形式の授業が大半であったが、乏しい社会経験と甘な了見しか具えていない青年には、その場を取り仕切ってくれる社会人学生の存在は随分と頼もしく思えた。加えて、これは青年のみが勝手に思い込んでいたに違いないが、ここに通っている人はみな学歴に傷を持ち、劣等感に苛まれているのだと思うと、なんだか同志のような気がして、居心地が良かったものだ。しかし、わずか二日間のつながりでは、それほど打ちとけることもできず、また懇親会などもあったが、結局はプライドが人一倍高い青年は、懇親会会場で大の大人が馴れあっている、自分と同様に繋がりを持とうと躍起になっている大人の、そんな光景を目にして、なんだか低レベルな集まりだなあ、と自らその機会を遠ざけてしまったのである(先に述べたことと矛盾しているが…)。

こうして、どこにも身を寄せるべき場所を持たない青年にとっては、同世代の女性と接点を持つためにはナンパをするしかなかった。ナンパに関しては早熟なほうであった。記憶の限りでは田舎に住んでいた十五、六歳の頃には地元の花火大会などで他校の生徒に声を掛けたりしていた。どうして、そのようなことをするに至ったのか定かではないが (いや記憶の限りを掘り起こすと、ロンドンハーツのスティンガーというホストによるナンパものの企画をみてを触発されたのかもしれない)、兎にも角にもわりとフランクに女性に声をかけることはしていた。そのため、高校を中退して、上京してからもナンパは続けられ、十代が同じ十代に声をかけるものだから、ガンシカされることは少なく、なかなかに上手くいくこともままあった。

さて、そんなある日、たまたま吉祥寺のマックで、深夜一時半すぎ、一人で音楽を聴きながらぼうっとしていた女性に声をかけたところ、あれよあれよとカラオケに連れ出し、即れたことがあった。それ以来、なるほど深夜のマックはなかなかにザルである、満喫に入る金さえない、乞食じみた女性なら簡単に連れ出せる、と妙なことを心得てしまったのだ。それからである、深夜のマックに通うことが習慣となったのは。

当時のマックには寛容さがあった。二十四時間営業の店舗では多くの場合、客席も開放しており、朝までコーヒー一杯で過ごすことができた。それがいつの間にか、経営上か、防犯上の理由かは知らないが、繁華街でも深夜は客席を閉鎖する店舗が増えていった。

青年が持ち場としていたのは吉祥寺か渋谷である (新宿や池袋にもたまに行ったが)。吉祥寺には三店舗、渋谷には (たしか) 四店舗、朝まで客席を開放していた店舗があった。深夜零時頃にその地に自転車で到着すると、まずは終電間際の駅前をぶらつきながら声掛けし、そして一時をまわると、各店舗に赴き、マックで朝まで過ごすことを決め込んだ女性がいないかと、店内をチェックする。該当する女性がいればすぐに声掛けし、いなければまた街中をぶらつきつつ路上で声を掛け、また適度な頃合いをみてマックに戻る。レジの前を素通りし、何も買わずに客席に向かう、また机に突っ伏して寝ている女性の肩をたたいて起こす、といったふてぶてしさも自然と身につけていった。

深夜の店内には、もちろん浮浪者風情のものから、いつも勉強している若者、険しい顔をして岩波文庫を読んでいる老齢者など、毎回見かける顔があり (当然男だが)、何人かはその存在がどうしても気になり、こちらから声をかけることもあった。渋谷の店舗で三日続けて両親と小さい子ども二人の四人家族を見かけたときは都会の闇をみた。

こうした活動は二十五、六歳まで続いていた。それなりに成果もあったが、引っ越しや、深夜の客席を閉鎖する店舗が相次いだこと、体力的に深夜に動き回ることがきつくなってきたことから、徐々に足が遠のいていった。何よりも歳を重ねることで、自分がこうした活動をしていることが情けなく、惨めに思えてきたのだ。

それでも、今でも週末の夜になると思い出す。あの頃の深夜の空気を、都会の喧騒がひと段落し落ち着きを取り戻した街の空気、そしてマックの店内の物寂しい雰囲気を。成果がない日も多く、ただブラつくだけで家にとんぼ返りする日もままあったが、それほど虚しさは感じなかった。むしろ清々しささえあったのだ。思えば同世代の大学生はサークル活動や、就活、卒業旅行などを通じて青春の甘美を享受しているというのに、自分は昼夜逆転した生活のなかで、深夜に一時間もかけて自転車を漕いでナンパしに行くことを楽しみにしていたのである。お気に入りの音楽やポッドキャストを聴きながら (これは現在では法令上禁止されているし、実際上も危険なのでやめたほうが賢明である)、今日はいいことあるといいなあ、と漠然と考えながら、かの地に向かう道のり、そして街中やマックをぶらついている時間が好きだった。

しかしである、清々しささえあったとうそぶいてみたものの、駅前でバカ騒ぎしている同世代の大学生風情グループを見かけると、やはりというべきか、病的なまでの嫉妬心で彼らを眺めていたのだ。それでも、自分はまだ二十代前半であるし、人生の再起動中であり、これから通信制大学から正規の (という表現は厳密には間違っているが) 大学に編入学することで、青春を謳歌する資格が残されているのだと自分は奮い立たせていたのである。

もっとも、本当に自分がいかに時間を無為に過ごしてしまったのか、と気づくまでには、もう少し時間が必要であった。そして、気付いたときは既に手遅れであった。青年はその後、無事に、とある大学に編入学することになるが、それまで、まともなコミュニティーで揉まれる経験がなかった青年は、他者との折り合いや距離感をうまく掴むことができず、そのうえプライドだけはどこまでも誇大化していたため、周りから疎まれる存在となるのであった……。

これは、まぎれもなく、bukuro青年にとっての、二十代前半の、青春の一小節である。